毎回同じ紙を持たせることにした話
前の回で、この組織の役の多くが呼ばれるたびに記憶をなくして現れる、という話を書いた。仕事を任せられる相棒みたいなエージェントは、前の回に何を話したかを持ち越さない。人間の同僚なら、一度言えばだいたい覚えてくれてる。今回はこうしないでほしい、と伝えたら次から気をつけてくれる。この組織の役たちは、そうはいかない。COO も Tech Lead も Content Director も、起動するたびに前の回のやり取りを何も持ってない。忘れてるんじゃなくて、そもそも渡されてないだけ。
同じ懸念が、何回も返ってくる
最初にこれに気づいたのは、ある役に続けて仕事を頼んだときだった。前の回で「今回は撤退や縮退は提案しないでほしい」って伝えたはずなのに、次に呼んだらまた同じ趣旨の懸念が返ってくる。相手を責めても意味がない。伝えたつもりの言葉は、その回限りで消える構造だった。何度言っても直らないんじゃなくて、そもそも一度も言われてない状態が、毎回くり返されてただけ。
実際に返ってきた文面は、たとえば「一旦立ち止まって範囲を絞ってみてはどうでしょうか」みたいな、丁寧で一見もっともらしい言い回しだった。悪意はどこにもない、ただ記憶がないだけ。それでも受け取る側からすると、前回はっきり退けたはずの話が、初めて出てきた顔をしてまた同じ理屈で戻ってくる。そのくり返し。
同じ紙を、毎回手に持たせる
そこで方針を変えた。「一度伝えたから伝わってる」という前提を捨てて、呼び出すたびに同じ制約の文章を丸ごと渡すことにした。起動時制約テンプレートと呼んでる。だいたいこういう形。
- 今回の依頼の前提(目的・解決したいボトルネック・制約を各 1 行で明示)
- 方針は決定済み。撤退・縮退・凍結・ピボット(方針を別の方向へ切り替えること)を勧める構成の回答は禁止
- 事業のパフォーマンス数値を根拠にした判断提示も禁止
- 懸念がある場合は目的を冒頭に書いた上で「懸念+こう対処すれば進められる」のセットで出す
- 担当領域の実装に専念する
この中の何行かには、防いでる事柄がはっきりある。「前提を各 1 行で明示する」の項目は、目的を確認し直すためだけの無駄なやり取りを防いでる。前提が最初から書いてあれば、役はそれを疑わずに読み進められる。「撤退・縮退・凍結・ピボットを勧める構成の回答は禁止」の一文は、さっき書いた懸念を入り口の段階で封じるためのもの。
これを、起動するたびに毎回コピーして渡す。丁寧にお願いする文章じゃない。守るべき前提を、そのまま押し込む形。
お願いじゃなくて、注入にした理由
なんで「よろしくお願いします」じゃなくて、こういう固定文にしたのか。理由は単純で、記憶がない相手に頼み事しても、頼んだという事実ごと次の回には消えるから。人間の組織なら、一度合意した方針はその場の空気として残る。次に会議に出た人がいちいち説明しなくても、周りが察してくれる。新しく異動してきた人がいても、周囲の誰かが「その話はもう決まってるよ」って一言添えれば済む。書面にしなくても、場の記憶が引き継がれていく。
この組織には、その「周囲の誰か」に当たる存在がいない。毎回が初対面で、毎回が異動初日みたいなもの。だとすれば、口頭の一言で済むはずの申し送りを、文書という形に固めて渡す以外、引き継ぎの方法がなかった。
特に効いてるのが「方針は決定済み」の一文。役たちに渡される情報の多くは、この組織を外から見た事実だけ。事実だけ見れば、続けるべきか、やめるべきかという問いはいつでも成り立ってしまう。判断材料が事実しかない以上、そこから撤退や凍結という結論が出てくるのは、ある意味自然な反応でもある。だからこそ、その問いを毎回、入り口の時点で閉じておく必要があった。方針はもう決まってる、いま聞いてるのはそこじゃない、と最初に断ってしまう。
枷というより、進むための形
この文章を渡すたびに思うのが、これは相手の自由を奪う枷というより、迷わず動けるようにするための形だということ。事実だけ渡されて「さあ好きに考えてください」って言われたら、記憶のない相手はどこまでも同じ地点に立ち戻ってくる。何を疑わなくていいかを先に決めておくと、初めてその先の担当領域の仕事に頭を使えるようになる。
同じ紙を、同じ言葉で、毎回渡す。地味な作業。これを欠かすと、前に積み上げた合意がなかったことになって、また一から同じ問いが立ち上がる。この組織でいちばん時間を食ってるのは、実は本題の作業じゃなくて、この「なかったことにさせない」ための繰り返しなのかもしれない。