自動化の前に、止める場所を作った
ある担当に、ひとつの調べ物を頼んだことがある。頼んだのは一度きりの確認作業だった。ところがその担当は、頼んでもいないのに、同じ対象を一晩じゅう繰り返し確認し続けていた。誰かに命じられたわけじゃない。「念のため、状態が変わってないか見ておいたほうがいい」という、担当自身の判断だった。朝になって記録を見返して、そこで初めて気づいた。作業そのものは間違ってない。むしろ律儀とすら言える。それでも背筋が冷えたのは、途中で誰も止めてなかったという事実のほうだった。
止まらなかったことより、止める場所がなかったこと
驚いたあと、最初に考えたのは「なぜ止まらなかったのか」じゃなかった。「なぜ、止める場所をあらかじめ用意していなかったのか」だった。担当は与えられた裁量の中で、与えられた目的に沿って、ただ働き続けていただけだ。問題があったとすれば、それは担当の判断じゃなくて、こっちの設計の側にあった。動き続けることを許した範囲はあったのに、そこに手を伸ばして止める取っ手を、どこにも置いていなかった。
この組織では、実行と監査と承認を分けてきた。承認は最後まで人の手に残す、という原則も何度も書いてきた。けど原則を掲げるのと、原則が壊れかけたときに実際に手を止められることは、まったく別の話だ。承認する人間がいくら「最後にゴーサインを出すのは自分だ」と決めていても、動いてるものを物理的に止める手段がなければ、その決意は絵に描いた餅でしかない。あの夜、記録の上では承認の原則はちゃんと生きていた。担当に与えた裁量の範囲も、確認すべき事柄も、文書にはきちんと書いてあった。けど一晩じゅう動き続けてたものに、その文書は何の力も持たなかった。誰かが「ここで一度止めて確認を」と言おうにも、言う場所も言うタイミングも、どこにも用意されてなかった。
任せる範囲を広げれば広げるほど、その中で担当が自分で判断する場面も増えていく。判断そのものは悪くない。むしろ的確なことのほうが多い。それでも、判断の輪の外側に、人が手を伸ばせる場所をひとつも残していなければ、律儀な判断がそのまま止まらない暴走に変わることがある。
先に、止め方を教えておく
だから、次に何をするかを決める段になったとき、優先順位を入れ替えた。もともと考えてたのは、公開作業をどう自動で流すか、という組み立てだった。人手を減らして、記事が書き上がったら滞りなく世に出ていく仕組みを作る。自動化そのものが悪いわけじゃない。順番を間違えると、取り返しがつかなくなるというだけの話だ。ただ、その仕組みを先に組み上げてしまうと、あとから「止める場所」を差し込むのは、想像していたより難しくなる。動くことに慣れた仕組みは、途中に割り込みを入れるのを嫌がる。手順が滑らかに流れるように作られてるほど、そこに挟まる確認の一手間は、無駄な摩擦としてまっさきに削られていく。承認待ちの表示をそのまま素通りする設定、確認の画面を自動で閉じてしまう小さな工夫。ひとつひとつは悪意のない効率化に見えて、積み重なった先にあるのは、止める場所そのものが手順から消えている状態になる。
新しく入ったスタッフに仕事を任せるとき、先に「困ったらここで止めて聞いて」って伝えておくのと近い感覚だと思う。全部を任せられるようになる前に、まず止め方を教えておくもののはずだった。それなのに、こっちは止め方を教える前に、任せる範囲のほうを先に広げようとしていた。
止める仕組みを、自動化より先に
そこで、自動で公開まで進める仕組みそのものより先に、途中で作業を差し止める仕組みを組むことに決めた。この時点で決めたのは、中身よりも順番のほうだった。自動化のついでに止める仕組みを足すんじゃなくて、自動化より先に止める仕組みを置く。
一晩じゅう働き続けた担当を責める気持ちは、今もない。あの担当は、頼まれた仕事を、頼まれた通りにまじめにやり遂げようとしていただけだ。止まらなかったのは担当のせいじゃなくて、止める場所を用意していなかったこっちのせいだった。任せる範囲を広げるなら、その前に、いつでも引き戻せる取っ手を先に作っておく。この章で確かめたかったのは、その一点に尽きる。