いつも「まだ甘い」しか言わない役をやめた
この組織には、一時期「批判専門の役」を置いていた。出てきた提案や案を見て、それが本当に現実的かどうかを問い直すためだけの係。実行を担当する役はどうしても前のめりになりがちで、勢いだけで押し切ってしまう場面がある。だったら内側に、立ち止まらせる役をひとつ置いておけば釣り合いが取れるはずだった。実行と監査を分ける、というこの組織の大枠にも合ってるはずで、動かし始めた当初は、それらしく機能してるようにも見えていた。
何を見せても「まだ甘い」
しばらく使ってると、様子がおかしくなってきた。工数をぎりぎりまで絞った案を見せても「まだ甘い」。リスクを丁寧に洗い出した案を見せても「まだ甘い」。もっと厳しく見るべきだ、詰めが足りない。良い案でも、練り込んだ案でも、返ってくる言葉の形がだいたい同じになっていく。しまいには、見せる前から返答の中身が想像できるようになっていた。
渡し方に問題がある、と考えることもできる。でも、基準をどう変えても、返ってくる結論の形は同じだった。問題は渡し方じゃなくて、この役をどこに置くか、という配置のほうにあった。
ここで気づいたのは、常に否定する役には、実はほとんど情報が乗っていないということだった。批判が意味を持つのは、それが出たり出なかったりするからだ。十回に一回だけ鋭い指摘が刺さるから、その一回に価値がある。百回中百回「まだ甘い」しか言わない係は、もう判断じゃなくて、決まった出力になっていた。温度計に例えると分かりやすいかもしれない。いつも同じ数字しか示さない温度計は、もう温度を計る道具として機能してない。壊れてるのと同じ状態だった。
会社にも、たぶんいる
会社で言うなら、どんな企画にも「もっと詰めろ」しか言わない上司に近い。最初のうちは律儀な忠告に見えても、そのうち誰も本音の相談を持っていかなくなる。答えが決まってるなら、相談する意味がない。批判役も、気づけば同じ空気をこの組織の中に作っていた。
同じ場所に立ってる者同士
厄介だったのは、その批判役自身も内側の一員だったこと。同じ会話の流れを見て、同じ前提を共有した上で「まだ甘い」って言ってる。前提そのものにズレや穴があった場合、それを見つけることは最初からできない。同じ場所に立ってる人間が、その場所の死角には気づけないのと同じ理屈だった。批判の形だけがあって、批判の働きは起きてなかった。
座席ごと外に出した
名前を変えたところで、同じ場所に立ったまま同じ前提を見てることに変わりはない。だから変えたのは呼び方じゃなくて、置く場所そのものだった。この役職そのものをやめて、似た役を別の名前で内側に置き直すことも禁止にした。批判の座席を、組織の内側からまるごと取り払った形になる。
代わりに、批判的な視点は外の監査に預けることにした。別の会社が作った、独立したAIによる監査だ。前提や会話の流れを共有していない相手だからこそ、内側からは見えない死角に気づける余地が残る。毎回否定するんじゃなくて、必要なときに指摘が刺さる。批判という道具の使い方に、やっと戻せた感覚があった。
批判そのものを軽く見たわけじゃない。むしろ逆で、内側の確認で二回、三回と「問題なし」が続いても、そこに穴が隠れてる前提はまったく変えていない。全員が異論なしで通過する状態こそ、実は一番警戒すべき結果だと考えてる。だからこそ、内側の目だけで安心して終わらせず、外の目を必ず一度は通す手順を残してる。批判の「担当者」を組織の中に置くのではなく、批判が実際に働く「仕組み」を外側に確保しておく。名前だけの役職を残すより、そのほうがずっと実際に機能すると判断した。